三島暦 |
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2017年 09月 30日
朝鮮半島から伝わった濃い鼠色の素地土と白い化粧土の半磁半陶器の雑器を『三島』と言います。 茶人の目にふれた高麗茶碗の模様が、 三島暦の仮名の刻線に似ていることから『三島茶碗』といわれるようになったそうです。 高麗青磁象嵌が変化したもので、暦手の模様が多く、花三島、彫三島の模様などがあります。 朝鮮では、粉青沙器と呼ばれています。 私が、いつも目にする暦は、仮名暦でなく全く似ていないので三島暦を見てみたいと思っていました。 旅行中『三島』の地名が飛び込んできたので、箱根へ行く途中急遽立ち寄りました。 三嶋大社で三島暦を買いましたが、いつもの暦とあまりかわりません?でした。 三島暦師の館を紹介していただきました。 古い仮名文字の暦が、展示されていました。 三島茶碗の暦手の模様と暦の仮名の線がそっくりです。 最近は、南朝鮮の陶器が、三島(朝鮮巨文島)の港に集まり、輸出されたので『三島』が通説になっています。 『有名な茶道具』 三島桶(徳川美術館所蔵)利休所持。筒形茶碗 二徳三島(三井文庫所蔵)利休所持。その後袋師二徳所持。内側三段の暦手紋、外側刷毛目。 三島暦手香炉(永青文庫所蔵)利休所持。のち細川家伝来。 『三島暦』 日本で一番古い仮名版暦です。8世紀には、作り始められていたそうです。 山桜の版木に墨をぬり一枚づつ摺った木版印刷で、書き写しではありません。 文字の線が美しく繊細さで、土産やお歳暮に使われ、全国に知られる暦です。 織田信長・徳川家康も使っていました。 暦師の河合家が製造発行し三嶋大社で売られていました。 鎌倉時代から明治ごろまで製造されています。 鎌倉幕府が、権威を強めるため源頼朝とつながり深い三嶋大社から暦を頒布させたそうです。 室町時代には、暦を三島というほど広まったそうです。 旅は、出会いがあり楽しいです。 #
by kourakuken
| 2017-09-30 22:56
2017年 09月 30日
茶席にとても合います。 また一種生けや根締めに使われます。 野生化して見事です。 お彼岸頃咲くので、お墓のお供えにちょうどよいと、人為的に植えられ 土地が、秋海棠にすこぶる適し、岩湧寺一帯に群生しています。 『秋海棠』 ベコニアの仲間で、多年草。球根性で、むかごで殖えます。 日本に寛永のころ中国より入り観賞用として栽培されました。 もとは、中国、マレー半島原産です。 秋海棠の美しさは、「雨に濡れたる秋海棠」憂いをひめた美女にたとえられます。 春に咲くバラ科の「海棠」に似て秋に咲くのでつけられた和名です。 趣は、全くちがいますが。 雄花と雌花を同じ株に持つ雌雄同株の植物です。 雄花が、8月中旬頃から先に咲き、下旬から九月にかけて雌花が咲きます。 雄花は、茎につき、黄色のおしべがあります。 雌花は、三角形で、クリーム色のめしべです。 ブログ読んでくださった方是非来年は、訪れて下さい。 感動しますよ。凄いです。 #
by kourakuken
| 2017-09-30 16:52
2017年 09月 12日
今日9月12日の新聞に
本能寺の変の10日後明智光秀が、『反信長派の豪族に宛てた書状』の原本が発見された記事が載っていました。 古文書から手紙の内容以外に色々な事柄を知ることができます。 『少庵召出状』 為 御意申 御意(ぎょい)為(として)申し 入候貴所被召出 入れ候(そうろう)。貴所を召し出さる 由 被仰出候間 由(よし) 仰(おおせ)出(だ)される候の間 急可被罷上候 急(いそ)ぎ罷(まかり)上(のぼ)らるる可(べく)候 為其申越候 恐悦__ 其の為申し越し候 恐悦__ 十一月十三日 家康 花押 氏郷 花押 少庵老 御意は、太閤様のご意向なので御意に敬意を払う意味で、為と御意の間一字欠字になってます。 (大意) 太閤様のご意向をお伝えします。 少庵あなたを召し出されると言われているので 急いで上洛してください。 そのことをお伝えします。 くれぐれもよろしく 1594年(文禄3年)11月13日 年号は、書いていませんので推定です。 利休自刃1591年(天正19年)2月28日から三年、少庵は、家康氏郷の計らいで京へ帰ります。 1595年(文禄4年)帰洛後 秀吉は、利休遺愛の道具長持三棹を宗旦に与え、少庵に利休聚楽屋敷の二畳茶室を下賜します。 少庵は、秀吉から利休の茶の継承を認められますが、 秀吉の茶頭に戻らず宗旦と共に権力と距離をおき利休流の茶を継承します。 利休自刃後利休嫡男道安は、飛騨高山の金森長近のもとに身をよせます。 少庵と同じころ赦免され帰洛しています。 帰洛後利休の後継者として秀吉の茶頭に復帰します。 1598年秀吉がなくなります。 少庵は伏見より堺千家今市町屋敷に戻ります。 1607年2月17日亡くなり堺千家は、没します。 養子少庵の京千家に千家の茶が継承されます。 #
by kourakuken
| 2017-09-12 14:45
2017年 09月 11日
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by kourakuken
| 2017-09-11 23:10
2017年 09月 11日
半年ぶりに投稿します。
本を読んだり、茶の湯旅を楽しんだりしていました。 6年前2013年少庵400年忌特別展が表千家、裏千家で開催されました。 少庵は、1614年9月7日亡くなっています。 丁度今頃です。 少庵(46歳)は、利休(70歳)切腹のあと会津藩主蒲生氏郷(36歳)の庇護を受けます。 『逢源斎書より』 氏郷が利休自刃を命じられたとき、京にいたなら許されたであろうとあります。 少庵は、秀吉より赦免状が出され、 京に戻るまでの三年会津で暮らします。 秀吉の赦免状は、徳川家康・蒲生氏郷連著で出された『少庵召出状』です。 家元では、残月亭にお正月に掛けられます。 今夏やっと会津を訪れることができました。 鶴ヶ城の領主の変遷 葦名家 1384年 東黒川館建てる 伊達家 1589年 会津より入城 蒲生氏郷 1590年 会津鶴ケ城城主 氏郷は、地名を「黒川」から「若松」に改め、今より高い七層の『鶴ケ城』を築きます。 氏郷が、入城したときは、黒川城です。 城内に茶室麟閣を建てます。 上杉家 蒲生家 加藤家 保科(松平)正之(家光の弟) 1643年 初代会津松平です。 松平容保 戊辰戦争が起こり1868年開城します。 城は、取り壊され、約100年後1965年に再建され、 茶室麟閣も、1990年本丸内に移築復元されました。 「蒲生氏郷」 もとは近江国蒲生郡日野の城主で、織田信長に仕え、信長の娘冬姫と結婚します。 後秀吉に仕え小牧・長久手の戦いで戦功をあげ伊勢松坂城主となります。 小田原攻めでも戦功をあげ1590年(天正18年)会津城主となります。 氏郷は、千家の恩人として『利休七哲』の筆頭に挙げられています。『逢源斎書より』 楽茶碗『早船』は、氏郷所持です。 「茶室麟閣」 匿われた少庵が、氏郷へのお礼に作った氏郷好の茶室と言われています。 戊辰戦争後、茶人の森川善兵衛が、明治7年城内の茶室麟閣を譲り受け自邸に移築・保存します。 少庵作の松の床柱だけ残し全部材料を取替えています。 森川家は、蒲生氏郷の時代から薬種商を営み、石州流怡渓派の茶人です。 会津藩の茶堂役も勤めました。 保科正之も「大名三茶人」に数えられ、茶道を好み石州流怡渓派の茶人です。 会津は、利休流の茶も武士茶道も盛んです。 御菓子司「会津葵」には、『少』の字を焼き印した麩焼煎餅があります。 #
by kourakuken
| 2017-09-11 22:03
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